自己紹介
経歴
私は中国の小さな町で生まれました。両親は中学校の先生でしたが、どの国の学校も知識の暗記が基本で、テストも暗記能力を試すものでした。私は文字を覚えるのが苦手で、学生時代は成績が芳しくありませんでした。父親は若い頃、絵を学んでいたので、私に将来美術を学ばせることにしました。
◆小学校の時から、デッサンや不透明水彩の勉強を始めました。当時はまだ趣味として楽しんでいましたが、他の様々な事も学ぶ授業を受ける中で興味を広げていきました。 中学校に進むと、家庭に初めてパソコンを導入しました。当時の一般家庭用コンピューターの性能は現在のPCよりも遙かに劣り、当時のOSはまだ「Windows XP」が主流でした。新しく購入したパソコンでも十分な速さがなく、また当時はコンピューターウイルスに感染するリスクも高かった時代でした。 その頃、よくゲーム「Command & Conquer: Red Alert 2」をプレイしており、その経験が記憶に残っています。
中学2年生の頃、中国の子供向けのテレビ番組でほとんどが「エヴァンゲリオン」を放送していました。これが私が日本に留学するきっかけかもしれませんでした。
◆高校生になって、正式の芸術学生として始まりました。私は居た高校に芸術学生少ないので、授業に対して普通科の学生より自由です、あれは懐かしい時期でした、教室に 行きたくない時は担任先生に報告すれば画室に行けます。画室で音楽を聴きなから、将来のことを妄想しなから、絵をかきました。
絵が凄く上手い先輩がいました、当時中国に「漫友」と言う雑誌がありました、この雑誌に全部日本のアニメ関連の情報記載してます。その先輩がこの雑誌を沢山持ってで、画室に置いてました。 多分その雑誌を見ってから、家のパソコンでオンラインで検索して、沢山の日本のアニメを見ました。そして、大学でアニメ関連の専門を学びたいことを決めました。
◆高校生卒業の夏休みに、親戚の兄がコンピューター関連の会社経営している友達がいました。当時は大学に使う予定のパソコンをその方に購入して、パーツから組み立て、osをインストールして、 osの設定やブックアップすることを学んでました、これが多分私が正式にパソコン関連に興味持った時でした。その方もその時から長い間でコンピューターのパーツ関連の先生でした、現在でも、なにがあったことがない 問題があったら、オンラインで解決方法を検索する習慣もその方に学んだことです。この知識の掛けで、その後で大学、留学でもよく他人のパソコンの修理を手伝いことで、沢山の友達を作りました。
◆大学。大学は三年制大学でした、学校は中国でも有名な美術大学でしたが、三年制の学生、当時は三回しか募集してない、その後も募集したことがないので、かなり珍しいかも、今で中国に私がその学校の三年制の卒業で言いて、信じない人も多い。 当時はこの三年制の入学した生徒はほとんど絵が凄く上手いで、普通科目が苦手でした。当時、私たちの学院はある川の真ん中の島にありました。学院から外へ出るなら、橋一本しかないので、今思い出しても、凄く面白い異世界の感じでした。 当時のクラスメイトの言葉で言うと、「週末にほとんとの人が学校の居ないので、学校にまるで化け屋敷みたい、何が出てもおかしくない」。
大学二年の時専攻を選ぶ時期でした。私がずっと型作るが苦手で、ソフトなどの勉強が得意でしたので、当時にまだほとんとの会社まだ使ってない3dソフト「maya」 を専攻として選んでました。その後には良い成績で大学を卒業しましたが、前で言った通り、当時は「maya」が使っている会社はほとんどないので、就職はダメでした。
◆ちょっと当時母から、もし私がどこの国の言語のテストを合格できれば、その国へ留学させるで冗談してましたところ、高校生の時好きだった女の子が日本に留学することが決めましたことを知りまして、以前好きの日本のアニメで、この国 を憧れて、大学卒業後半年くらい日本の基礎を学び、日本に来ました。これは私の人生転換点かもしれない、わざわざ、世の中、2dが一番強い日本に来て、もしかしたら、自分でも綺麗イラストも描けるになれるがなあと思いました。
今まで学生の時で心の闇で、文字の暗記が苦手のことで、やはり言語の勉強の自信がなかったので、普通の留学が日本語学校で1年で卒業して進学で考えてますが。私がもっと日本語を上手くなりますように、 日本語学校を普通に2年を在籍しました、日本語学校の時、食品工場のアルバイトしてました、私はアルバイトでは金を稼ぎためじゃないので、よく工場のおじいちゃんおばあちゃんと世間話してました。アルバイトそて半年後、人員変動のことで、 私は在庫管理になりました。
当時は多く年寄りの方達を会話することが多い原因で、年寄りの人の日本語が理解しているが、逆の若い日本人が多分外来語が多く使ってる原因が、若い日本人の言ってること理解できなかった。 日本語外學校の卒業後でもそこでアルバイト続き予定でしたが、進学先がこのアルバイトの場合まであまり遠いでしたので、辞めました。今思い出しても、楽しい仕事でした、年寄り方から色んな昔の日本の事や、 教科書から学んだことがない日本ごも学んでますた。
◆専門学校。当時も幸運かもしれない、學校に寮の住むことを決めました。とっても古いが伝統できな寮でした、毎日夜、皆一緒にお風呂して、色んな話をしてました、日本人の友達も沢山作りました。アニメによくあるお風呂の我慢大会、先に出る人が負けのことも よく遊んでました。専門学校はアニメのキャラクターデザインを専攻でそたが、学校の先生からでも、キャラクターデザインのことあまり教えることが思い出せないので、ゲームデザインのこと教われました。 ゲームの企画から、イメージ画像を作るまで勉強してました。
専門学校は基本就職率で宣伝してますので、一年生の時から学校の就職活動の講習を受けなから、就職活動を始めてました。一年の夏休みの時、ある10人未満のアニメ会社に研修に行ったことあります。 この会社の面接は今まで一番長い面接でした、四時間続いてました、ほとんとは社長個人が現在の日本の教育に対して不満の話でした。
◆結果的にはキャラクターデザインを勉強しましたが、キャラクターは上手く描けなかった。就職するために、アニメ背景をメインで就職してました。専門学校の二年目の冬、新年の前、日本のアニメ会社 の中でも大きいなアニメ背景専門な会社に合格しました。専門学校卒業前からアルバイトとして研修に入る、そのまま好きなアニメに参加しました。当時はDMMのゲーム「艦隊これくしょん」とっても人気でした、 ちょっと自分入社する時、そのアニメも制作中で、制作に参加し、自分の名前も何話の制作リストに残りました。
それから、も色々好きな作品を参加しました。アニメ会社に入る前は、ずっと美術設定は美術監督が決めることと思ってましたが。そうではなかった、美術監督はただアニメ全体の背景のイメージを把握する人でした、 私の目標は自分考えた世界を作品に作りたいことで、アニメ業界は私の目標を達成する場合じゃないと思いました。
◆自分の目標と違いことを知りましたから、ゲーム業界に転職することは始めました。アニメ会社で働き一年半の時、ゲーム業界の転職をきましました。
私はあまり仕事時間にぶらぶらすることが好きじゃないので、大体一つプロジェクトが終了した途端に転職しました、そして転職のなら段々背景イラストレーターからイラストレーター全般、ゲーム運営部で企画メインにしました。
◆◆
日本の学校や面接でよくある質問:あなたの10年目標は何ですが?
ここまでの時間線としては、ちょっと私は日本に来る十年目でした。 将来はどうの目標にするが、迷う途端に、家の事情で一年間帰国しました、帰国の後から、今まで自分ができそうけど学んでない知識も勉強し、中国にも就職活動をしてました。 私は元々芸術系ので学歴には無縁と思ってましたが、まっさが中国の就職活動の中一番よく聞かれた問題は私が何ができるじゃなく、私の学歴は本物がどうかの事でした。
もう6年以上の仕事経験があるのにまだ学歴がなければだめ?のことを考えから、ちょっと自分今までの仕事の中色々学びたいこともありましたので、新しい知識を勉強する上学歴をアップできる学校を探してました。 それで、まだ二度で日本に留学に来ました。今回、大学院。
◆この大学院は私には一番あうと思いました。学歴をアップすることができる上、専門は今までと全然違う科目も選ぶことができる。今までコンピューター関連の趣味で色々遊んでました、そしてこの知識でもし仕事ができれば良いと思いました。 今まで文字の暗記が苦手の事で、プログラミング言語を勉強することが始まらなかったが。エンジニアのプーローの友達が時間ありまして、プログラミング言語を入門勉強してました、その友達から自分に凄く会う勉強方法を見つかりました-----> すべて暗記する必要はない、ただどんなコードでどんな機能を実現できることはイメージを残して、必要の時調べで良い。
この方法で、大学院の授業を受けなから、必要な知識を自分独学して、自分がいつでも分かるメモを沢山記録しました。元エンジニア専門じゃなかったですが、学校にでも、普通のエンジニア専門の学生より負けないと感じました。
◆ ◆ ◆続きの未来は、元の知識も現在学んだ知識も、次の人生に役に立つように目指します。